設立のいきさつ
日本障害者ゴルフ協会(DGA)は、1991年に埼玉県所沢市にある国立リハビリテーションセンターで誕生しました。当時の名称は「日本身体障害者ゴルフ連盟」といい、同センターの運動療法士長であった水田賢二(現DGA顧問)の指導のもと設立しました。
水田は障害者スポーツの世界では有名なトレーナーで、車いすバスケットの審判員等もつとめ、数知れない障害者が彼によってスポーツに目覚め身体機能を回復していきました。
水田が国立リハビリテーションセンターで障害者の運動療法にあたるうち、ゴルフをしてみたいという障害者が数多く出てきました。特に脳卒中等で片マヒ(体の片側がマヒすること)になった人たちからは、「もう一度ゴルフはできないものだろうか、発病前には永年親しんできたゴルフをリハビリ目的でもいいからできないだろうか」という希望が多く寄せられました。
そこでまず、センターの庭に簡易練習場を造り練習をしてみました。数名が集まったところで日本身体障害者ゴルフ連盟(DGAの前身)を設立し、将来を見越して財団法人日本障害者スポーツ協会に加盟しました。
運動療法としてのゴルフはなかなか好評でした。体が不自由になる前にやっていたスポーツで親しみがあったことで、楽しく面白く練習をするうちにマヒした半身が少しずつ動くようになった人もいました。
水田はこの活動をさらに広げるために大会の開催を考えました。大会を開けば同センター以外の障害者も集まるのではないか、もっと多くの人に障害者ゴルフを知ってもらえるのではないか、そんな思いがあったからです。
そこでゴルフ場に何軒かあたってみましたが、結果はすべて断られました。理由は、「内容がよくわからない」、「なんだか大変そう」、「何か事故があればどうするのか」など、障害者のためにゴルフに門戸を開いてくれるゴルフ場はありませんでした。
「日本ではまだ時期尚早なのだろうか?」日常の激務もあり、そうあきらめかけていた頃、水田は現日本障害者ゴルフ協会代表理事の佐藤成定と出会いました。
佐藤は経済ジャーナリストで出版社を経営していました。ちょうどその頃、たまたま福祉関係の取材で水田のもとを訪れ、障害者ゴルフの計画を聞きました。佐藤にはゴルフ場を経営する友人も何人かいたことから、その中の一つのゴルフ場に声をかけました。
それが栃木県今市市(現日光市)にある「ウイングフィールドゴルフ倶楽部(現パインズ日光ゴルフ倶楽部)」でした。
水田は大変喜んで準備を始めましたが、日々のセンターでの仕事が多忙なため、なかなか事務的な仕事がはかどらなかったことから、見かねた佐藤が事務局も引き受けて大会の準備を進めました。
大会の名称は佐藤の発案により「日本障害者オープンゴルフ選手権」と名づけられました。「障害者の日本オープン」という権威ある大会にし、日本全国のみならずひいては世界から、プロもアマも障害者ゴルファーなら誰もが参加できる試合にする、ということを目標にしました。
この大会は、今や海外でも障害者ゴルフ界では「ジャパンオープン」として知られています。活動を始めるにあたって大きな目標を掲げたことが今日の成功につながりました。
事務局の最初のメンバーは水田賢二と佐藤成定、そして当時ウイングフィールドゴルフ倶楽部で支配人をしていた真辺和美(現DGA渉外部長)、佐藤の部下であった松田治子(現DGA事務局長)でした。水田以外は障害者スポーツについては何も知らない素人の集まりで、まさに手探りでのスタートでした。まずはどうやって障害者ゴルファーを集めたらいいのかわからず、大会の一週間前に集まった参加者はわずか15名足らずでした。目標の大きさに比べて現実は厳しいものでした。
しかし幸い、大会までの1週間の間に水田のもとでトレーニングを受けていた若手の障害者達10名以上が駆けつけてくれることになりました。中にはパラリンピックの金メダリスト等もいましたが、ゴルフはあまり経験がなく、どんな結果になるかは皆目検討がつかない状態でした。
最後には若い頃にスポーツで足を傷めて軽い下肢障害があったゴルフ場のオーナーも出場者に加え、総勢31名で「第1回日本障害者オープンゴルフ選手権」を開催できました。
この時、車いす使用者によるプレーが特別な乗用カートを用いて行われ、日本で初めての車いすゴルフプレーが実現し、朝日、毎日、読売を始めとする新聞やNHKのニュースで報道されました。
この大会が日本障害者ゴルフ協会が本格的な活動に踏み切った第一歩で、今では総勢80名以上が参加する大きな大会に育ってきました。





























































